北の食文化に灯をともして


 嘉永6年(1853)アドミラル・ペリーが浦賀に出現しました。植民地を求めて、イギリス・フランスの艦船が来航しており、ロシアの南下も、蝦夷地を求めてでした。幕末期、各国の捕鯨船が北海道・樺太周辺に出漁しており、特にアメリカは、日本近海を含む太平洋全域に30万トン、700余隻の捕鯨船を派遣していました。アメリカ船のみ鯨油が目的で、鯨肉は殆ど投棄していたといわれています。
 地元のアイヌの人々の鯨漁は昔から行われておりましたが、幕末期の箱館人は鯨肉を主として、異国の捕鯨船より入手していたようです。明治初期、缶詰にして、輸出した実績を持つ程、豊富であった鹿肉、その他野鳥、魚介、山菜等々、幕末期来の箱館人は、北前船で輸送されてくる高価な米穀より、入手しやすい栄養豊富な地場物を主食として食べております。 ペリー提督
ペリー提督

旧店内
 安政6年(1859)11月13日、箱館在住大町1丁目、町人重三郎が、箱館奉行支配応接掛へ外国人向料理店開店の件を願出て、許可になっております。既に安政4年(1857)4月18日、当時の箱館奉行は、ジャガイモを多く耕作すべき旨を諭達しております。
 当時、すでに函館周辺の地では、玉葱・人参等が栽培されており、ジャガイモと共に西洋料理に必須の西洋野菜は、既に栽培されていたのです。
 長崎では、文久3年(1863)草野丈吉が伊良林郷若宮神社の傍に、土地の名に因んで良林亭という西洋料理専門店を開店しております。箱館の重三郎の西洋料理専門店の開店より4年ほどあとに開業したということになります。
 明治初期の文明開花は当時の上流社会を中心にしたものでなく、既に幕末期に箱館において、庶民の生活の中にはぐくまれ開花していたのです。明治10年代に、コーヒーの缶詰の広告が出ており、ビーフシチューの缶詰の広告が眼につきます。

 レストラン五島軒の創業は明治12年、その店名は初代コック長の五島英吉に名にちなんで命名されました。
 初代経営者若山惣太郎は、埼玉県鴻巣の医者の家に生まれましたが、医者になるのが嫌で上京、日本橋蛎殻町で米屋を経営しましたが、米相場に失敗。再起を期して函館に渡り、明治12年にロシア料理とパンの店を開店しました。この時の初代コック長が五島英吉(本名 宗近治)です。
 五島英吉は五島列島の出身で、長崎奉行所の通辞官をしていましたが、戊辰戦争に巻き込まれて箱館に渡り、榎本武揚や土方歳三と共に五稜郭で戦い敗れ、残党狩りを逃れてハリストス正教会に匿われました。教会で10年間従者として働きつつ、ロシア料理とパンの作り方を覚え、惣太郎と出会って一緒に商売を始めました。彼は7年間コック長を努め、明治19年の火災で店が焼けた後、横浜に転居しました。
食器

新聞  明治19年7月の函館新聞の広告によると、「永年フランスで修業した、老巧の料理人を雇い入れ、宴会もできる本格的なフランス料理店開店」と伝えています。当時の記事・広告を見ますと、西洋料理店(フランス風料理店)の広告の多いのが眼につきます。当時の函館人の 嗜好は、ロシア料理指向ではなくフランス風好む人が多かった様です。五島軒も、やむを得ず“西洋料理”に転換することにしました。 函館は浜風が強く、火事の発生が異常に多かった。このあとも店は明治29年の大火で末広町基坂下に移転、更に明治40年の大火で現在地に再度移転しました。現在地でも大正10年に被災し、函館史上最後の大火となった昭和9年の大火でも焼失したが、その都度新築して現在にいたりました。

 第2次世界大戦下の米軍の爆撃では多くの都市が破壊されました。函館では連絡船、造船所は壊滅状態でしたが、幸いにも市街地は被害が軽微であり、当店も無事でした。しかし、終戦と共に五島軒の建物はアメリカ占領軍により、強制徴用され、この期間、昭和20年10月から25年8月までは、市内西川町(現在の豊川町)の市民館内で細々と営業を続けざるを得ませんでした。また、米軍から返還後、日本政府から少額の補償金が支給されたのは更に3年後の昭和28年のことでした。
新聞 旧五島軒外観
明治40年の五島軒


■ 五島軒 トップページへ戻る ■