『教育・福祉合同作品展の未来に期待して』

函館盲聾教育後援会・会長 若山 直

 第52回教育・福祉合同作品展の記録文集作成にあたり、巻頭言を書くチャンスを与えられたことに心より感謝申し上げます。
今回は今までにない多くの作品が展示され、販売も好評だったことは喜ばしいことです。ここまでこぎ着けたのも、本人達の努力を支えた父母の皆さま、そして関係者の人々の熱努力のたまものだと思います。本当にご苦労さまでした。
 さて、私は中小企業の経営者ですが、経営のかたわら盲聾教育後援会の会員として障害者の自立を応援しています。目指す目標は、障害者が限りなく健常者と同じような人生をおくることで、そのためにはまず、「どこからどこまでなら」できることがあるか、が問題になります。本人ができる範囲はどこまでか?その境界を知らないと他人の助けを得ることはできません。境界がわかれば、「具体的に、ここをサポートして欲しい」と言えますし、逆に、健常者をサポートする部分があることがわかる。ニューヨーク大停電の夜、「盲人たちが健常者の案内をした」という逸話は両者の仕事のあり方を教えています。
社会の歯車として、両者が一緒に働ける社会は住みやすい。その実現はIT技術の革新もあり、今までのように障害者を養護する対象だけに限定しない未来がひらけつつある。
北海道新聞に「障害者の就職9年連続最多」という記事が掲載されました。
『平成25年、ハローワークを通じて就職した障害者は、24年に比べて10%増(4245人)になった。内訳は精神障害者18,5%増、知的障害者は5%増、身体障害者は2%増。産業別では、医療福祉が4割だが、運搬・清掃・包装・事務職など、実に仕事の幅は広くなってきた。(5月30日朝刊)』
今回の“作品展”を見ていて、音楽や絵画、工芸などの分野にも、就職の選択肢は広がっていくだろうと感じました。展示品を「お情け」抜きで販売するには大きな壁があるでしょう。しかし、有名なフランスの画家ゴッホは、生前たった数点の油絵しか買ってもらえませんでした。しかもその一枚は弟が買ったのです。
山下清の貼り絵のように、健常者もかなわない作家・作品が誕生すること、そして将来、「教育福祉作品展」から、福祉の文字が外れる日が来ること。これが私の夢です。
どうか来年の展示会が更に盛況でありますように。
皆さまのご健勝とご多幸を心よりお祈り申しあげます。

「コーランの世界~ムスリムの友人たち」

2015年1月、イスラム教徒を名乗るテロ組織が、パリの「週刊誌襲撃事件」を起こした。それに続いて、今度は『イスラム国』を自称するテロ組織が、日本人2人を殺害する事件がおきた。いま日本中で「イスラム国とは何か」が様々に論議されている。
しかし、議論の前提としてイスラム教の歴史とその教え『コーラン』を知ったうえで発言している人はどのくらいいるのだろうか。
40年前、私が働いていたフランス・ヴィシーのホテルには多くのイスラム教徒(ムスリム)が働いていた。フランスの植民地だったアフリカ大陸の若者が多かった。
「食物としての豚をマホメットが禁止したのは、豚は沙漠では飼えない生き物だし、衛生的にも食肉としてふさわしくなかったからだ。ユダヤ教徒の教え(旧約聖書)をそのまま引き継いだせいでもある。そもそも数千年前の戒律は人工衛星の時代にはそぐわない。江戸時代に日本人は“四足”を食べなかったのだろう?僕の国、国内では今だって戒律はうるさい。でも若いモスリムはみな覚悟して国を出て働いている。そうでないと受け入れてはもらえない道理だ」と言ったのは、エジプト人のハッサンだった。
エジプトから来たハッサン以外にも、アルジェリア、チュニジア、コンゴ、トルコ、イラン、イラク、モロッコ、アフガニスタン、ロシア(亡命ロシア人)、カザフスタン、パキスタン、インド、インドネシア、マレーシアのモスリムと話し合った。
当時、隣国のドイツには『ドイツ=トルコ労働協定』により、年間100万人ものムスリムが『ガストアルバイター』(ガスト=お客=外国人労働者)として働いていた。
フランスでは人手不足を補う旧植民地からの移民が多く、アルジェリア、チュニジア、モロッコからは政府留学生も来ていた。これから建設する国営ホテルで働くためである。いずれも圧倒的に男性が多かった。彼らは日本人と同じように欧米人女性を口説き、ゴーゴーを踊り、ビールを痛飲し、ソーセージを食べた。少数だが、イラン、イラク、インドネシアのモスリムの女性もいたが、黒いベールで顏を隠した女性はあまり見たことがなかった。
私が柔道、剣道、茶道に疎く、釈迦の『仏教原典』そのものより、法然を始祖とする浄土宗の寺に通い、「法然の教典」を読む檀家信者だったように、彼等もまたコーランの文章のすべてが「絶対の言葉」だなどとは思ってはいなかった。
フランスで、イギリスで、現地女性と結婚したモスリムは国籍を代え、現地人と同じように生活していた。欧米にも、個人的な好みとして肉を食べないベジテリアン(野菜、果物を食事の基本にする)はいる。「豚肉は好きじゃない」と食べない者もいた。いまから思えば、彼らは宗教的な戒律を守っていたのかもしれない。
留学生の多くは「祖国の近代化をすすめたい」と言った。「今でも、戒律にうるさい人はいる。そんな人が多数派だったからアラブは欧米にやられた。トルコの近代化は、宗教と政治を分離して初めて可能になった」と、トルコのハッサンは強調した。
ロンドンではユダヤ人の家庭にホームステイした。
そこでは確かに豚肉を決して食卓に出さなかったが、いま日本で話題の『ハラル』をうるさく言いはしなかった。いずれにしても、ユダヤ教徒の旧約聖書も、キリスト教徒の新約聖書も、その文章の「一字一句を守る・体現する」などということはできない相談だ。
だから、『イスラム国』を名乗るテロ集団は『イスラム原理主義者』ですらないと思う。 彼等は『似非イスラム』の集団だと私は思う。そこでまずはムスリムの歴史を俯瞰してみることにしよう。

イスラム教の歴史
✪570年:イスラム教の起源となるマホメット(モハンマド)がメッカに誕生。 当時のアラビアの宗教は多神教であり、その多くは石碑を祭って祈っていた。それらの総本山としてメッカにカーバ神殿が(神殿の黒い石は今も信仰の対象)建造されている。
✪610年:マホメットがヒラー山にこもっていたとき、天使ガブリエルから「全知全能のアッラーこそ唯一の神であり、その教えを広めよ」との啓示を受けた。布教を開始。
✪622年:マホメットはメッカの布教を邪魔されたため、信者と共にメディナに移って自宅を建てた。自宅は信者の「集会所=モスク」の起源となる。この移転はヒジュラ(聖遷・遷都)と呼ばれ、この622年をもって「回教歴・元年」とする。
マホメットはアッラーの教えを朗誦した。それが『コーラン』である。
マホメットが説くアッラーの神とは絶対無二の存在であり、その教えを説く『コーラン』は人類の守るべき教えとされる。
マホメットは「自分は大天使ガブリエルが選んだ『最後の預言者』である」と宣言している。ユダヤ教の聖典『旧約聖書』をもたらした第1の預言者モーゼ、モーゼの死後、人類に新しい契約『新約聖書』をもたらした第2の預言者イエス・キリスト、2人に続く第3の、そして最後の預言者が自分であると宣言した。
コーランは、偶像の廃止、結婚・離婚の規則、喜捨(来世のために金を積む)の務めと利子の禁止、食事制限など、実に事細かに定めている。そして『イスラム原理主義者』は、「コーランの一字一句が絶対である」とする。これを金科玉条とする聖職者が、それを政治の原理に据え、戒律を事細かに一般庶民に推しつければどうなるだろう?
数世紀まえ、ヨーロッパで吹き荒れた『魔女裁判』の再現を思い出して欲しい。

モハメッドの成功と暗殺の連鎖
モハメッドが布教を始めてから20年後、破竹の勢いで信徒を増やした教団は、ついに624年にメッカ軍を破った。この勝利は伝説となり、マホメットの神格化が始まる。これはその後の暗殺劇の始まりでもあった。
✪624年:マホメット率いるモスリムはメッカ軍に勝利。
✪630年:メッカを征服して以後、メッカが宗教の『聖地』となる。
✪632年:マホメットがメッカに「別離の巡礼」(メッカ大巡礼の起源)をした後、メディナに住んでいた最愛の妻アイーシャの家で没した。
✪634年:アイーシャの父、アブー・バクルが第1代カリフとなる。アブー・バクルの後継として、ウマルがカリフに指名されたが暗殺され、ウスマンが権力を掌握。ウスマンは『コーランの定本』を編纂した。このウスマンも暗殺され、アリーが後を継いだ。
✪661年:アリーはクーハの礼拝堂で暗殺された。この間、ムスリム軍はシリア、イラク、ペルシャ(現在のイラン)を征服し、その領土は広大となる。
✪661年:ウマイヤ朝が成立、首都ダマスカス。750年滅亡。
エルサレムに「岩のドーム」が建設された。アラビア貨幣が普及し、アラビア語で書かれた『千と一夜の物語』が生まれる。ダマスカスの大モスク建造。
欧州のフランク王国に攻め込んだムスリム軍は、ドイツのカール・マルテル(カール大帝)に敗北して撤退。イスラム軍はインダスに進攻、現在の回教国パキスタンの起源となる。同時に、イスラム軍は東アフリカに植民地を拡大していく。
✪750年:アッバス朝が成立、首都バクダード。1258年滅亡。
アッバス朝のイスラム軍がモロッコ、チュニジアを征服。ファーティマ朝が969年エジプトを征服してカイロを首都とする。イスラムの各部族はそれぞれの部族長が「・・朝」を宣言して始祖となっている。イスラム帝国は部族の連合国家で、『コーラン』は彼らを束ねる共通のシンボル。「砂漠の砂は強く握っているあいだのみ一つ」という伝統は現代まで続いている。
1096年~1099年:十字軍がコンスタンチノープル(現在のトルコの首都イスタンブール)に進出。エルサレムを占領し、エルサレムはキリスト教徒の支配地となる。百年後、1187年、サラディンが十字軍を破り、エルサレムを無血開城。
1221年:チンギスカーンがペルシャに進攻してきた。チンギスの配下であるフラグカーンが首都バグダッドを占拠し、アッバス朝は滅亡。
1258年:ペルシャのモンゴル人支配者カザンハーンがイスラム教に帰依(カザフスタンの起源となる)、モスリム地域拡大。モンゴル諸部族のイスラム化が進む。
1299年:オスマン1世がオスマントルコを樹立(1922年滅亡)。スレーマン1世時代がオスマントルコの最盛期。
1492年:スペイン・グラナが陥落、イベリア半島はキリスト教圏となり現在に至る。
1526年:バーブルがインド・ムガール帝国を樹立(ムガール=モンゴルのなまり)。これは後世、インド国内の宗教、回教とヒンズー教の対立を生むことになる。
1571年:オスマンがレパントの海戦で、スペイン・ポルトガル・カトリック教皇の連合軍に敗北。ヨーロッパのキリスト教の隆盛が明らかになる。
1583年:フィリピン、セレベス、ニューギニアにイスラム教が広まる。
1683年:オスマントルコ軍、ウイーン攻略に失敗して撤退。
1699年オスマン帝国はヨーロッパのすべての領土を失った。
1722年:サファビー朝は首都イスファハンをアフガン族に落とされて滅亡。
1798年:フランス・ナポレオンがエジプトを占領。
1803年:イギリスがインド・デリーを占拠。ムガール帝国は傀儡政権として存続。
1881年:イギリスがエジプトを占領。フランスがチュニジアを占領。
1908年:青年トルコ党が革命を起こして議会政治を始める。
1923年:ムスタファ・ケマルがトルコ近代化のための活動を開始。
1923年10月29日、『トルコ共和国』を樹立して初代大統領となる。
ケマル、首都を遷都。トルコの首都は、ビザンツ帝国・オスマン帝国の首都として1500年続いたイスタンブールから、アンカラに移し、政教分離、ラテン文字の采用、議会政治が導入された。ケマルは国民的英雄『アタテュルコ(トルコの父)』と呼ばれる。
トルコの近代化は目覚ましく、EUへの加盟も検討されたほどだ。資源に恵まれないトルコが、他のアラブ産油国よりも早く近代化できたことは検証に値する。
トルコは日本の事例に多くを学んだ。資源のない日本が雄飛した理由は幾つかあるが数点に絞れるだろう。(1)政教分離の徹底(廃仏毀釈は行き過ぎだった)(2)全国一律の国民学校・郵便制度・服装(着物から洋服)・住所番地。(3)精神的遷都:いかなる時代も政権奪還は『京都に旗を立てる』ことで日本の統一はなった。鎌倉に続く江戸幕府は三百年続いたが、征夷大将軍などの位階は京都の天皇から賜った。その天皇の御所を旧江戸、『東の京都=東京』に遷都したことで伝統からの脱却を計ったのだ。既得権益から自由になり、(4)廃藩置県、(5)徴兵制はやりやすくなった。近代化の道筋に奇策はないということだ。

コーランの記述と伝承

✪岩波文庫・上巻
直接、コーランの文章を読んでみよう。「上、中、下」3冊の内容は繰り返しが多いが、ユダヤ教、キリスト教が問題視する個所を抜書きして見た。
《25頁》アッラーはかくて我らムーサ―(モハメッド)に聖典を授与し、彼のあとも続々と使徒たちを遣わした。中でもマリヤムの息子イーサー(聖母マリヤの息子イエス・キリスト)には神兆を与え、かつ精霊によって支えた。
《26頁》さて、彼らの手元にあるもの(聖書=バイブル=旧約・新約)を更に確証するために聖典(コーラン)がアッラーから遣わされた・・。
《82頁》アッラーのお目から見れば、イエスはちょうどアダムのようなもの。彼を泥で作っておいて、それに『なれ』とおっしゃったら本当に生きた人間になったのだ。
《118》アッラーは、ご自分が他の偶像と一緒に並べられたら絶対にお許しにならない。だがそれより手前のことなら許して下さりもしよう。
《169頁》それからまたアッラーがこう尋ねた時のこと。 『これ、マリアの子キリストよ、汝はみなに、アッラーではなく、このわしとわしの母親を神として崇めよ』などと言ったのか』と。
イエスが答えるには『ああ、なんともったいないことを。私がなんでそんないい加減なことを申しましょう・・私はただ貴方様がお命じになったことを皆の者に伝えて、わが主にしてまた汝らの主なるアッラーを崇めまつれ、と言っただけです・・それはもう、偉大で賢明な汝のことでござりますれば・・』

✪岩波文庫・中巻
《129頁》天使ガブリエルが現れ、「汝に無垢の子を授けるために」とマリアに言う。 「なんで私に子ができましょう。私は男に触られたこともない体・・」
・・こうして彼女は身ごもって、人目を避けて引き籠った。・・突然おこった陣痛のあまりの苦しさに、マリアはナツメヤシの幹に寄りかかり「ああ、こんなことになる前に死んでいればよかったのに」と叫んだ。すると下から声がして「そう悲しむな、そのヤシの木を揺すぶってごらん、瑞々しい実が落ちてくる、食べて機嫌を直しなさい」と言う・・。
(彼女は無事に子を生み)息子を抱いて人々のところへやってくる。人々は「マリア、なんてことをしでかしたのじゃ」と言った。彼女はゆりかご中の子を指さした。すると生まれた直後で眼も開かない赤子・イエスが言った。
「私はアッラーの僕です、アッラーは私に啓典を授け、私を預言者にして下さいました。命ある限り、礼拝と喜捨の務めを欠かさぬよう、との戒めを頂きました。それから母さんによく孝行を尽くすようにと。ああ祝福された我が身よ、私の生まれた日に、やがて死に行く日に」と。
これがイエス、みながいろいろ言っていることの真相である。もともと、アッラーに子ができたりするはずがない。ああ恐れ多い。・・いろいろな宗派(ユダヤ教、キリスト教)は互いに意見を異にしておる。いずれ恐ろしい日(最後の審判の日)に、どんなひどい目に遇わされることか」
《282頁》アッラーこそ、天と地を6日間で作られたお方(旧約の天地創造) ・・
人間を泥から造りだし、息を吹き込んで下さった方(旧約のアダムとエバの伝承)。 《301頁・解説》コーランには(旧約聖書にでてくる)アダムとイブの失楽園、ノアの洪水、アブラハムの信仰、エジプトのモーゼ、ソドムの滅亡、ダビデとソロモン、大魚に飲まれたヨナなど、世界中の聖書の読者が知っている主題が繰り返して語られている。
《334・解説》全世界の3億の信徒にとって、『コーラン』は「絶対の真理」であり、「神の言葉」であり、聖なる経典である【と、される】。

『イスラム』デズモンド・スチュアート著、ライフ人間世界史No.12。
コーランは預言者マホメットがアッラーに授かった言葉を記してある。従ってマホメット本人のことはほとんど書かれていない。(マホメット本人は読み書きができなかった)伝記作者はマホメットの周囲の人々からの聞き書き、肉親や信者の言葉を集めるしかなかった。
『コーラン』を教えるための物語や『預言者の生涯』にもマホメットは登場する。そこに登場する挿絵は、ヴェールをつけ、顔を隠して描かれるのが普通であった。
興味深い挿絵が(21~29頁)に掲載されている。
(1)メッカの神殿カーバの横で祈るマホメット。緑色の着衣をまとい正座している。顔は白いヴェールで隠されている。側にいる天使は人間の顔をし、背中に羽根が生えている。
(2)マホメットの母アーミナの夢。一群の天使が現れ「お前は預言者を生むであろう、その子にマホメットと名付けよ」と告げた。【キリスト誕生の逸話とまったく同じ】
(3)マホメット生誕のとき、天使たちは貧しい母に敷布団などの贈り物をもって現れた。 【キリストの場合は東方の3人の博士が、黄金、もつやく、乳香を持参】
(4)幼子マホメットの所に、天使たちは、水差し、たらいを持ってきて洗浄式を行った。 身体を洗い清めるムスリムの習慣はこれが起源である。
(5)マホメットは、25歳のとき、裕福な商人で未亡人だったハディジャと結婚した。彼女はマホメット教に入信した初めての信者となった。
(6)メッカ近くの山で瞑想にふけっていたマホメットは、『大天使ガブリエル』から神の啓示を受けた。ガブリエルは「神の為に人々に教えを広めよ」と告げた。
(7)ある晩、天使たちが現れ、『楽園(エデンの園)』に一夜の旅をする準備を命じた。
(9)この夜の旅で、マホメットは旧約聖書の中の預言者や天使などを引き連れて天上の寺院に祈りに行った。楽園で彼は『モーゼ』に出会った。マホメットは、モーゼは“赤ら顔”だったと書いている。『キリスト』にも会った。キリストは“そばかすのある中肉中背の男”だった。『アブラハム』については“彼ほど私に似た男に会ったことがない”と述べた。
(10)清められたマホメットは7つの天を通り抜けて、神の顔をじかに拝するという無上の光栄に浴した。・・(省略)【アッラーには顔がある!】
(11)63歳になったマホメットのところに『死の天使』が現れ、「現世に永遠に生きるか、楽園のアッラーのもとに行くか、選択するように」と告げた。マホメットは死の道を選んだ。所持品を皆に分け与え、信仰を貫き通すように信徒たちに告げたのち、天使によって運ばれて行った。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教
『コーラン』を旧約聖書、新約聖書と並べて読了して思うことがある。
「あんなイエス・キリストと名乗る若者が説いたものを私は認めません、あれ(キリスト教)は新興宗教です。イスラム教などはキリストの更に5世紀もあとに現れた最近の宗教です。そもそも私たちの聖書のモーゼを、『アッラーの僕(しもべ)』、コーランを説く『預言者の一人』にするなどとんでもない。しかも、旧約、新約、まとめて自分のコーランと同じ聖典だなどと言う。いい加減にしてもらいたい」と言ったのは、ロンドンのホームステイ先のハッサン夫人ある。
彼女は戦時中にナチスの迫害を逃れてイギリスに亡命してきた人だった。
クリスマス・イブに、私が食材を買ってきて「今夜のイブに」と差し入れしたとき、「ありがとう、喜んで食卓に出すけれど、それはイブを祝うためではありません」と言って、次のように続けた。
「イブを祝うのはキリスト教徒、私たちユダヤ教徒は祝いません。それとね、ローストチキンは頂くけれど、こっちのお料理にはエビやカニが混じっているのでだめ。甲殻類はハッサン家の家族は食べません。このページを読んで・・」と、棚から旧約聖書をとりだし、さっとページを開いた。「海の中の魚は食べても良いが、身体の曲がっているもの、鱗のないものを食べてはならない、とあるでしょう?イギリス人はベーコンが好きだけど、我が家では豚は食べない。これは守るべきユダヤの戒律なの、悪く思わないで」
2015年の日本では、いまイスラム教の『ハラル料理』がどんなものか話題になっている。イスラムはユダヤ人の食事の戒律をそのまま受け入れている部分がある。
コーランは旧約に遅れ、新約の500年後に現れた教典だ。マホメットは「アッラーの神は、モーゼ、イエスに続いて私を第3の、そして最後の預言者として遣わした。旧約も新約もアッラーのもの、コーラン(マホメットが述べる言葉=神の言葉)がいわば集大成の聖典」と宣言した。ユダヤ教徒、キリスト教徒がこれを認めうるはずがない。
特にユダヤ教徒にとっては認めがたい。
かつて、トルコ人のハッサン(ハッサンという性は、佐々木、鈴木、佐藤さんのような名前である)が、「若山のところに来た手紙の切手をもらえないか?」という。そこで数枚をあげた。ところが自分に来た切手は一枚もくれない。「これは僕のものだからあげない、でも君のものを僕はみんな欲しい」という。次の手紙がきたとき、「君のものと交換でなければあげない」と言うと、「じゃあ・・」と言って、ようやく自分の切手を交換に出してきた。
「自分のものは自分のもの、相手のものも自分のもの」と行動するモスリムは多い。こちらが「強ければ譲歩」するし、「弱ければつけあがる」。これは国民性というよりも、沙漠の狩猟民の伝統に違いない。そう割り切ってつきあい、その後はうまくいった。
「日本人は、『東洋』学を研究しながら、イスラム文化圏から疎遠だった。無関心であり過ぎた。中東外交はなっていない。親友の顔をしながら、石油確保の下心が丸見えではないか」と、日本外交を批判する日本人研究者が言った。
「石油ショックとはいえ、欧米がアラブとイスラエルの板挟みで苦しむなか、日本はサウジアラビアなどの産油国にすり寄り、ゴマすりをしている、この新聞の漫画を見て欲しい」と彼はフランスのルモンド紙を広げて言った。
その漫画はこんなものだった。
『黒服のアラビア人がドラム缶に手を置き、ムスリムの黒い旗を掲げている。男の脇で飛びあがっているのは明らかに小柄な東洋人。男は眼鏡をかけ、カメラを首からぶら下げ、手には日の丸の小旗をもっている。周囲には数人の白人の男たちが呆然として2人を眺めており、背景には欧米の国旗が反旗になっている』
明らかに日本の二股外交を揶揄した漫画であった。これをユダヤの国・イスラエル、敵対するアラブの人たちはどう見ていただろう。日本の政治がこの漫画の通りの『二股膏薬』であることを認めたうえで、彼らの多くはトルコのハッサン同様にこう語った。
「日本は中東の戦争とも、ユダヤ対イスラムの争いとも関係ない国だ。欧米とアラブのような歴史的軋轢がないし、今もそうだ。だから日本対アラブの政治は、互いに自国にとって一番有利な結果を求めて綱引きをすることになる。石油の9割を中東から買っている日本は、中東にとって最高のお客だ。しかも金払いは良い。多少割高でも買う、という日本を、欧米諸国がどうこう言う資格はない。無視していい」と。
「自国のために、自国の有利のために動く、それが政治だ」ということだ。
「政治には妥協が必要だ。そうでなければ戦争になって、とれるものもとれなくなる。かつて二股膏薬でない政治があったことがあるか。ない、というのが現実だ。よりよい妥協をする能力が政治力だ」とも。個人的な友情と、国家同士の同盟を、日本人は一緒くたに考えてはいないか。
日本の東洋学は中国、朝鮮、インドが主であり、イスラム研究は白紙状態だった。それは今も基本的にはかわらない。中東が世界的な注目を集めるのはせいぜい19世紀ころからである。しかし、それはイスラム側も同じである。イスラムの学者はどのくらい日本を研究しているだろう。まったく白紙に近いのが現実だろう。だからこそ『東方見聞録』が伝説となり、日本の高度経済成長は『奇跡』とされたのだ。
オスマントルコが、『トルコ共和国』として独立したのは1923年、大正12年である。トルコ独立の数年前、1917年に誕生した『ソ連邦』は一時アメリカと世界を二分した超大国だったが、ソ連邦は革命で倒れ『新生ロシア』に代わっている。
現在、『中国』は世界第二の超大国として、アメリカ、日本と対立している。覇権国家としての中国は、アメリカの相対的な弱体化のすきをつき、フィリピン、ベトナム、マレーシアと海の国境問題をおこしている。日本=インドネシアは、戦前も戦後も友好関係にあるが、そのインドネシアの8割がイスラム教徒であることを、日本人はようやく「そうだったのか」と認識を新たにしている状況である。
『イスラム国』との問題は、人質2人が殺害されるという最悪の状況で終わったが、これは次のスタートの合図だったように思う。この状況化で選ぶべき日本の進路は、草の根の意見を集約しつつ、未来が見えるようなデザインを作ることだと思う。
40年前の日本は高度経済成長の上り坂にあった。それが下り坂になったいま、その下り坂を活かす方法を柔軟にデザインすることが必用だ。
そのデザインについては次回に提案したい。

平成27年 新年のごあいさつ

新年明けましておめでとうございます。
平成27年の新春を迎え、謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。

五島軒は明治12年、「ロシア料理とパンの店」として創業し、本年135年目の新年を
迎えることができました。この間、4度の大火、アメリカ進駐軍による店舗接収、平成
14年の隣家からのもらい火による類焼など様々な苦難がありましたが、これらを乗り
越えることができたのも、ひとえにお皆様のおかげと感謝申し上げる次第です。

今年は五島軒にとって、そして函館にとってどんな年になるでしょうか。
明るい話題はなんと言っても道民の悲願であった新幹線です。1年3ヶ月後には「新
函館北斗駅」に新青森からの一番列車が到着します。これに合わせて手狭だった市民
会館は5、000名を収容する「函館アリーナ」として8月に新装オープン、GLAYの公演も
決まりました。函館=東京が4時間で結ばれれば、冬期にしばしば欠航する空路を補完
することができ、観光客の入り込みは増えるはずです。新幹線が函館にとって2度目の
観光ブームを巻き起こす起爆剤になって欲しいと思います。

ブームの第1回目は1988年の「青函博覧会‘88」でした。
博覧会を起爆剤に、函館山ロープウエーは駅舎の全面新装に加え、125人乗りの
ゴンドラを導入。湾岸では廃墟同然だった倉庫が金森ビヤホール・物産館に生まれ
変わり、道南石油ビルも複合施設(レストラン・物産館・遊覧船ブルームーンの発着所)
に代わりました。五島軒もレストランを改装。同様に新築、改築した店舗は無数にあり、
西部の様相は一変しました。一番大きく変化したのは地元の函館市民の意識です。
観光客の入込み数が予想外に大きかったにもかかわらず、博覧会そのものは赤字
でした。けれども観光客の多くは「西部地区の街並」を歩き、函館は再訪したい町
全国トップ10に名を連ねたのです。
これは市民にとって“目から鱗が落ちる”体験でした。教会群とお寺が軒を並べている
風景、それは「宮崎シーガイヤ」や「長崎ハウステンボス」「札幌テルメ」などとは異なり、
地元の住民にとって日常のありふれた施設にすぎませんでした。しかし、それは欧州
にもない〈異国情緒〉であることを教えてくれたのです。
本物の教会なら欧州には掃いて捨てるほどある。でも神社やお寺に隣接してロシア、
フランス、イギリス、アメリカの教会群が仲良く並ぶ風景は世界のどこにもない。この風景
こそ、「日露戦争」があってもハリストス正教会が壊されなかった函館の風土、一度も宗教
戦争やテロがおきなかったこの町の証明です。
やがて市民有志による「伝統的建造物群保存会運動」が生まれ、それは「チャーチフェス
ティバル」や「函館野外劇」、「バル街」など、他の都市のモデルとなりました。現在の
全国的な知名度はこのような運動の結果なのだと思います。

昨年、五島軒は「青函ファンド第一号」に選ばれ、瞬間冷凍機やスライサーなどの設備
投資を行うとともに、菓子の売店“ASHIBINO”を本店内に設け、「函館スイーツ」の
開発、販売に精を出しております。
本年2月26日(木曜日)には、新コック長・野口豊の就任に伴う創作メニューの会も開催
する予定です。創業以来の「味はとびきり、値段は手ごろ」で、今年も精進を重ねて参り
ますので、どうかよろしくお願い申し上げます。

末尾になりましたが、皆様にとって、平成27年が実り多い年でありますように
心よりお祈り申し上げます。

株式会社五島軒
代表取締役社長 若山 直

ボランティアのこころ

(今回掲載いたします文章は、若山社長が函館の特別養護老人ホーム
「旭が岡の家」の後援会長として、会誌に執筆したものです。)

 『SOS!旭ヶ岡の家&函館野外劇』

 この年末特別号に初投稿したのは、68号、2010年のことでした。
67号迄はグロード神父が素晴らしい絵と文章を載せていました。ホームに来る
人たちはみな神父の絵をみて一様に癒されるだけに、新作が登場しないのは
ちょっぴり残念です。

その神父が亡くなって2年、残念なことが最近2つ重なりました。

その一つは、ホーム創立から続けてきたソレイユ祭りの目玉、『神父さんの
トークショー』がなくなったことです。昨年は山内実神父が席につき、今年は
薄田神父が行うはずでしたが、体調不良のため中止。しばらくして薄田神父は
病気で東京に戻られ、ご高齢(85歳)ということもあって帰函しないことに
なりました。今年の理事改選で、ホームを運営する理事全員がキリスト教徒に
なっただけに残念な事態です。ソレイユ祭りの参加数が減少しているだけに、
ここは思案のしどころです。困ったときは原点回帰、グロード神父の本を
本棚から数冊とりだし、再読しました。

『おとしよりに太陽を~SOS日本の老人福祉』、『好奇心だよ、好奇心~
グロード神父の生き方論』、

『夢の咲く丘~グロード神父と旭ヶ岡の家の25年』、

『老いはバカンス、ホームは休暇村』、

そして『シリーズ福祉に生きる~59.グロード神父』です。

2012年12月25日に神父が逝去されたため、最後の一冊はプロローグ
(最終章)の一部を書き直し、葬儀に参列されたかた全員に贈呈されています。
著書を再読して、グロード神父の思想、そしてその予想が身にしみました。

「2025年の日本の人口予想では4人に一人が65歳以上、2050年では3人に
一人が老齢人口になるとされる。これは人類史上初めての未曽有の例です。
65歳以上の寝たきり期間は約9ヶ月、85歳なら4人に一人は要介護状態に
なる。これはつまり、福祉は一握りの人たちのものではなく、日本人すべてへ
普遍化したということ。老人問題は福祉や介護の世界だけでは解決できなく
なった。だからありとあらゆる分野の専門家の知識を結集しなければならない。

日本は縦型社会の構造をもつ歴史の古い国だけに、『わかっていても横の
連携はなかなか進まない』でしょう。だからこれからの未来は厳しいと予測
できる。でも、だからこそ、“夢”が必用なのです。『老人期は人生最高の
バカンス、ホームは休暇村』。旭ヶ岡の家はそのモデルです。夢を忘れること
なく、未来へ、未来へと羽ばたいて行こうではありませんか。でもそのためには
ボランティアが集まらなければなりません。ボランティアとは、『自分の決まった
仕事以外の人生を持ちたい』という、人間の自発性に依拠した活動です。
決して一方的な施しではありません。お互いに協力しながら、もう一つの
誇りをもてる自分の人生を探し出すこと。そして自発性と創造性いっぱいの、
より明るい人間関係を深めていく、そんな活動なのです。ボランティアは
『趣味』の世界であり、『冒険』と『自己実現』の世界であり、自発性が生み
出す文化と道徳の世界です」

もう一つのSOS、それは『函館野外劇』です。
舞台となってきた五稜郭の石垣が崩落し、この夏の公園では水舞台を使えま
せんでした。石垣の修復は2年がかりです。来年の夏も公演するとしたら縮小
したものにならざるをえない。そこで2016年3月に開通する北海道新幹線を
目指して『力を蓄えよう』ということになりました。一休みして体力を蓄え、
赤字化、高齢化を跳ね返そうというわけです。私は野外劇創設(1988年)
から参加し、副理事長をへて60歳のときに退任、今は一般会員です。
「函館大火で逃げ惑う市民たち」のシーンに加わり、まだ歩けない次男を
抱きながら、幼い長男の手を引いて雷雨のなかを逃げ惑ったことなど、本当に
懐かしい。その息子たちも今や30歳前後の大人です。函館日仏協会の
事務局として、東京の笹川財団と話合い、野外劇のスタッフ10名を
ルピディフ視察に送り込んだこともあった。「たとえ特別史跡でも、電線の
地下埋設などの許可はいずれでるはず」と言い続けたグロード神父。
でもそうはならなかった。これは大きな誤算でした。一方、姉妹提携している
フランス・ルピディフでは、設備の常設化に加え、歴史館、テーマパークを
新設し、村の雇用に貢献する地場産業に育っています。その剰余金は自然
保護の資源として活用されています。日本国内では、地熱発電の資源
(温泉源)があっても、国定公園内だと発電計画はままならず、荒廃地が
増えている。「それは本末転倒ではないか?」という神父の声が
聞こえてくるようです。

ほかにも神父が提示していることは沢山ありますが、皆さんと一緒に力を
合わせ、道を切り開いて行きたいと思います。どうかご協力下さい。

後援会の皆様に『ソレイユ』の輝きがありますように、心よりお祈り申し上げます。

中小企業家同友会の新聞『散歩道』に掲載のコラム

近年、日本社会に不気味な『異変』が起きている。

有史以来増えてきた人口は平成20年から減少に転じ、その中で
『自殺者』が3万人に達して減少する気配がない。
明らかになってきたのは、その主因がストレス、ストレスからくる鬱病で、
その患者の多くは大小を問わず企業経営に従事している男性達だ。
ちまたには鬱病の本が溢れているが、癌・心筋梗塞・エイズと異なり、
心の病に特効薬はなく、予防法は当面、自分自身で対処法を
考えるしかない。

中小企業家同友会は新聞を発行しており、新聞のコラムへの投稿を
依頼された。(コラム『散歩道』は健康な経営者が投稿)。

これは、世相を反映して自殺・病気に罹りにくそうな経営者を選んで
書いてもらい、ストレス解消法の『ヒント』を共有しようということなのだ。
私はこの7月で満69歳になったが、未だに入院経験がなく、
20歳の時の体型に変化はないから『有資格者』として指名されたのだろう。

そこで、私のストレス予防のコツを5つに集約してみた。

(1)毎朝40分のウオーキングで汗をかくこと。

(2)趣味を活かして教える側に立つこと。

(3)依頼された原稿・スピーチは快く受けるが、スピーチの場合は
相手の顔を眺めて中身を変え、原稿は読まない。メモは持参しても良いが、
聞いている相手の反応次第で中身を変えるのが流儀である。

(4)食事、睡眠を規則的にとる(しかし、生真面目になり過ぎるのは逆効果)

(5)『明日の風は明日になってからでなければ決して吹かない』のだから、
なにがあっても熟睡すること。

ただし、この5か条は毎日継続しないと効果がありません。

では、これを守るとデメリットはないのでしょうか?
むろん多少はあります。副作用として『タバコ・深酒・ギャンブル・浮気』が
できにくくなる。「酒なく、タバコなく、女のない人生など生きるに値しない」
と思う人、「英雄色を好む」を座右の銘にする人にはお勧めできません。

ところで、(3)のスピーチについて最近気になっていることがあります。

講演(スピーチ)を依頼されながら、頭を下げて書面を読み続ける人がいます。
かつて初めと最後の挨拶以外には、観客席の方を見ないで読み続けた人が
いました。これはleadingリーディング(朗読)であって、スピーチspeech(講演)では
ない。講演会と朗読会は違います。試しにスピーチの合間に手紙の「朗読」を
取り入れてみると、朗読の良さがわかるし、講演との違いがわかります。

この延長線上にあるのがパソコンを利用した講演です。
映像はイメージの図式化に威力を発揮します。美術館での講演(絵画の解説)や、
災害について講演する場合は『百聞は一見にしかず』。しかし、エジプト文字を
映像で解説するならいざ知らず、文章をそのまま映像化するのは意味がない。
読む速度は人さまざま。書面なら自分にあわせて読めるが、画面ではできない。
しかも暗い中で互いに表情が読めず、交流が生まれない。文章ばかり読まされると、
大半のお客は居眠りを始めてしまう。退屈だからです。
やはり講師はスピーチの最中でお客の反応をキャッチし、お客のニーズにあわせて
内容を軌道修正するべきなのです。

最近、散歩しながらこんなことを思いました。

『散歩道』2014.9.20.~五島軒社長 若山 直

函館盲聾教育後援会「愛の友」

「愛の友」第22号・投稿   若山 直       平成26年9月12日.

手話の輝きは永遠に~未来に向かって挑戦しよう

皆様、残暑お見舞い申し上げます。

さて、このたび『全道ろうあ者大会』が函館市民会館大ホールで開催され、
函館盲聾後援会は、6日(土曜日)の大会式典で“感謝状”を頂きました。
本当に嬉しいことでした。
大会実行委員長・函館聾学校の仲尾芳則同窓会長が述べているように、
一日も早く『手話条例』が函館でも成立するよう、努力していきたいものです。

視覚障害に比較すると、聴覚の障害はわかりにくい部分があります。
文字の読み書きができるため、「目が見えない人に比べれば、生活するのは
楽だ」と誤解するからです。手話が法律で“言語”に認定されたのは平成23年。
昨年、鳥取県で手話条例ができ、北海道でも法制化の整備は急ピッチで
進められています。手話が一つの“言語”であるという認識が高まり、
働く場を創造する時代がようやく開かれようとしています。

聖書には「はじめに言葉があった」と記されています。人間は母親の胎内で
「胎児」として育ちますが、胎内は光がささない暗闇の世界です。胎児は
母親の心音を聞きつつ成長し、十月十日の後「赤ん坊」として誕生します。
生まれた赤ん坊の目は見えません。でも母親の出す音(声)と、周囲の音の
違いはわかります。心音を聞いて準備をしていたからです。やがて母親が出す
音(声)には意味があることに気づき、それが「言葉」というものであることを
体得し、“会話”しながら成長していきます。人間は“音”を“言葉”と認識して、
はじめて人間になることがわかります。

では、音の識別ができない聴覚障害者はどうやって“言葉”をもてるので
しょうか。昔から視覚障害者には「あんま」などの職業訓練が用意され、
プロのピアニストや声楽家もおります。これに反して、視覚障害者の専門
教育は大きく遅れました。私は大会に参加しつつ、若い頃、フランスのコック
達と過ごした経験を思い出していました。「パントマイム」の舞台を鑑賞し、
映画「沈黙の世界」を語りあった経験です。あれはチャプリンの無声映画や、
映画「フラッシュダンス」と異なり、背景に音楽はなかったが、観客を引き
つける力がありました。そこには聴覚障害者がプロのパントマイム役者として
活躍する「場所」があったのです。函館大会にそんな「舞台」があったら、
なんと楽しい大会になったことでしょう。役者になるには、全道、全国で
選抜大会が行われるはずですし、そのための脚本、舞台監督、誘導係、
観客のための通訳も必要です。映画やサッカー、野球と同じです。
そこでは世界の若者が手話で意見交換し、ダンスやパントマイムを踊り、
男女の恋が生まれ、披露宴がパントマイムで進行することでしょう。

函館盲聾後援会が目指す「未来への挑戦」は、手話条例の実施に加えて、
こんな大会の実現も加えたいと思います。後援会会員の皆様、これからも
未来に向かって頑張りましょう。

どうかよろしくお願い申しあげます。

<スタッフより>

・皆さま、おひさしぶりです。五島軒ブログスタッフです。
「社長のブログ」をチェックして頂き、誠にありがとうございます。
長らくご無沙汰してしまいましたが、当ブログは今後
「社長の月刊コラム」として、毎月月はじめの投稿を基本に
更新を行って参ります。

若山社長の原稿が遅れないよう、毎月厳しく
締め切りをチェックして、皆様に作品をご披露できますよう努力致しますので、
今後ともご愛顧のほど、よろしくお願い致します。

函館盲聾教育後援会『愛の友』事務局便り21号   平成25.8.30.

函館盲聾教育後援会『愛の友』事務局便り21号   平成25.8.30.
若山 直
『博報賞について』
皆様、残暑お見舞い申し上げます。
さて、昨年は盲聾教育後援会100周年に因んで様々な行事を行いました。しかし、次の百年がきたころには、今、この『愛の友』を読んでいる方は、私を含めてみな鬼籍に入っているわけですから、記憶に残ることを一つだけ書いておくことと致します。
それは博報賞受賞についてです。私達の後援会は、100年の歩みを評価され、『平成24年度・第43回博報賞』を受賞しましたが、この賞には副賞100万円がついていました。そこで後援会は「現場の教育実習」に使うことを承認しました。全国では様々な講演会や教育大会がありますが、近年は国家予算も削減が進み、盲学校、聾学校では旅費などの費用を工面するのが大変なためです。
ところで、博報堂という企業が出す『博報賞』とは、どんなものなのでしょうか?
「こどもたちを輝かせる、地道な努力を応援する」ことが目的です。昨年度は団体・個人から88件ほどの申込みがあり、そのうちの24件が受賞しました。授賞式はJR東京駅の近くの「日本工業倶楽部」で行われました。記念写真の撮影のあと祝賀会があり、24団体を代表して、白川町長と私が3分間スピーチを行う機会を与えられました。
そこで私は自己紹介で、自分は五島軒の社長だが、広告代理店・博報堂に注文を出すことはあっても、頂く側に立ったのは今回が初めてであることを述べ、「後援会は今後も努力を続けて行くが、次回の受賞は、『盲学校』『聾学校』を対象に申請したいこと」「函館は素晴らしい観光の町ですので、是非一度いらして下さい」と発言しました。
翌日は受賞者全員が「歌舞伎見物」に招待され、盲学校木村浩紀校長と2人で見学してきました。松本幸四郎などの歌舞伎役者を身近で見て、「日本語教育」に重点をおく博報堂ならではのプレゼントだと感じました。古典芸能の鑑賞が後援会活動に直接役にたつことはないでしょう。でも、自分たちが使っている言葉の中には歌舞伎用語がたくさんある。函館子ども歌舞伎に生徒たちを招待できないものか、それよりも学芸会に歌舞伎を活かせないか、と思いました。いずれにしても、子供たちの教育のため、日本各地では大小を問わず、様々な取り組みがなされています。最近は国際化を反映し、「海外研究者招聘事業」や、「世界の子供ネットワーク推進事業」の対象も増えているようです。ただ、この賞を毎年連続して受賞することはできません。特別ボーナスと思えばよいでしょう。この点、『百周年』は恰好の申請だったと思います。いずれにせよ、次の100年への歩みは始まっています。皆さん、息長く頑張りましょう。
函館盲聾教育後援会の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

プリンセス・カイウラニの献立

道新文化センター社外教室(趣味の部)
映画の中の料理を食べよう『食卓から世界旅行』
‟Princess Kaiulani” (プリンセス・カイウラニ)の献立
講師 ~五島軒 社長  若山直 
調理長 佐々木政則
 この映画は、23歳の若さで亡くなったハワイ王国の王女《ビクトリア・カイウラニ》の伝記をもとに製作されています。王女の母はハワイ人、父は英国人(スコットランド)でした。ビクトリアはイギリス女王(ビクトリア女王)への敬意を、カイウラニはハワイ語で『天国の頂き』を表しています。
カイウラニは、ハワイ王朝最後の晩餐会を主催するにあたり、列席した3名のアメリカ合衆国長官を前にテーブルスピーチをしました。
「皆様、どうかハワイの“伝統料理”をお楽しみ下さい。私は、ハワイ王朝の王女としてアメリカの民主主義に敬意を払っております。ハワイ先住民に、アメリカ本土の人たち同様、市民権を与えてくれるように請願します」
今回はこの晩餐会をヒントに献立を作ってみました。

ハワイ王朝“最後の晩餐会”
★オードヴル:アボガドと海の幸のガトー仕立て
前回の《ハワイの料理編》では、アヒ(マグロ)のたたきを食べました。今回は、アボガド、サーモン、帆立貝を、ダイス(四角)状にカットし、塩、コショウ、オリーブ油で和えてガトー仕立てにし、まわりにワサビ醤油のジュレを添えました。
★スープ:カボチャの冷製スープ
ポワロ(西洋長葱)と玉ネギをバターでさっと炒め、これにカボチャ、ブイヨンスープ、牛乳を加えて煮込む。煮込み終わったらミキサーにかけ、良く冷やす。食べる直前に6分立の生クリームを加える(口当たりがまろやかになる)。よく冷えているうちに供する。
★魚料理:スズキのマカデミヤ・ナッツ揚げ
マカデミヤの木は、オーストラリア原産の熱帯性果樹ですが、100年ほど前に果実をとるためハワイに移植されました。今日、市場に出回っているマカデミヤ・ナッツはほとんどがハワイ産で、料理やケーキなどに広く使われています。
スズキに、塩、コショウで下味をつけ、さらに小麦粉をまぶす。用意しておいた卵黄によく浸してからナッツをまぶす。冷蔵庫で30分ほど寝かせる。フライパンにバターとサラダオイルを入れて良く熱し、寝かせておいたスズキを入れ、両面がキツネ色になるまで焼き上げる。熱いうちに供する。
★肉料理:ローストチキン マッシュポテト添え
映画で「ポイは美味です。こうして人差し指ですくって食べて下さい」という場面が登場します。ハワイ人は昔から良く焼けた肉と、タロイモをつぶして作った粘っこい糊状の『ポイ』を日常食としていました。(今回は代用としてマッシュポテトを使用)
鶏を一羽丸ごと用意する。鶏に塩、コショウをし、フライパンで表面に焼き色を付けてから、オーヴンに入れて焼き上げる。焼きあがったら食べやすいように切り分け、マッシュポテト、温野菜を添え、グレービーソース(鶏を焼いた際の出汁)をかけて供する。
★デザート:バナナのベニエ アイスクリーム添え
 ベニエは、表面はサクッとしながらも、中身はもっちリした揚げ菓子です。ビールを加えてビール酵母で発酵させた生地で揚げます。揚げたてのベニエには、冷たいアイスクリームが一番。相性がとても良く、楽しめます。
 ★ハワイは上質なコーヒー豆がとれます。お土産にも良く売れています。

映画の粗筋
✪1889年、ハワイ王国の首都ホノルル。この日、ハワイに初めて電燈が灯ることを記念して、《点灯式》が行われようとしていた。点灯者に選ばれたのは、王の妹の娘、ビクトリア・カイウラニである。式の当日、ハワイの政治・経済を牛耳っていた白人地主たちは、密かにクーデターの準備をしていた。王宮に電気が灯った瞬間、銃を持った集団が殺到し、首相の退陣を要求した。王の衛兵と集団が争うなか、カイウラニの父は危険な会場から幼い王女の手を取って逃れ、船でイギリスに向かった。母を失った悲しみもあり、カイウラニは海へ身投げをしようとして父親と激しく争う。しかし、説得され、運命に従ってイギリスの父親の友人宅に預けられることを了承する。
✪友人夫妻には、王女と同年齢の娘と、その兄、クライブがいた。クライブは王女に一目ぼれし、いつしか2人は恋仲となっていく。カイウラニは、クライブの妹と同じ女子高に入るが、学生寮の女性教師から偏見に満ちたイジメを受ける。
ある日、ハワイの青年から手紙が届き、生徒は「醜い原住民に手紙!」と騒ぎ立てた。駆け付けた女教師は、生徒の面前でその手紙を破り捨て、「さあ、落ちた手紙を拾ったらいかが?卑しい先住民の王女様!」と憎々しげに言い放つ。
また別のある日。クライブたち3人は英国貴族になった侯爵の披露パーティに招かれる。兄のクライブがカイウラニをエスコートして入場する際、侯爵はカイウラニに尋ねた。「文字が読めます?」と。夫人は「きれいな衣裳ね、まるで王女様のように見えるわ」と言った。クライブはすかさず「英語とハワイ語が・・あなたは6か月前に侯爵となられたが、カイウラニ王女のハワイ王朝は1500年の歴史があります」と答えた。唖然とする夫妻に、妹は「兄はあまりに正直なのが欠点です」と言い添えた。
✪2年後、数通の電報がカイウラニ宛に届いた。
それは《ハワイ政変》の緊急電報だった。クライブの両親は「本当にお前がカイウラニと結婚するつもりなら、この不幸な電報は見せない方が良いだろう」と言った。
しかし、彼女はハワイからの手紙で事件を知り、いく枚もの緊急電報を読んだ。最後の一枚には、「これを王女に知らせよ!」とあった。激怒したカイウラニは、許嫁となっていたクライブに詰めよって叫ぶ。「ああ、クライブ、私が弱い女だと思っていたの?」「私が、私の国ハワイを捨ててあなたと結婚するとでも?」
やがてもどってきた父親から、《ハワイ王国滅亡》の真実を知らされたカイウラニは、自らが従うべき運命を知った。王女としての使命を果たさねばならない。彼女は父に詰め寄って言う。「アメリカ大統領に直訴しましょう!」「・・そうだとも、お前はあの王国の継承者なのだ。お前が乗り込めば、ニューヨークの新聞各紙の大きな話題となるはずだ」「それに賭けましょう!」。こうして父と娘は、イギリスから船でアメリカへ向かった。
✪2人がニューヨークに着くと、多くの報道陣が詰めかけていた。
カイウラニは用意したメモを読みあげるが、「聞こえない!」「もっと大声で!」と叫ばれてしまう。彼女は意を決し、メモを捨て、「ハワイ王朝の危機」について演説した。
見事なスピーチに感動した記者たちから「いつ大統領にお会いますか?」と質問が飛んだ。「記者の皆さん、皆さんにその実現をお願いしたいのです」
翌日の記事には、『ロンドンのアクセントにハワイの心』、『教養が高く、気品にあふれた気丈な王女』の大見出しが躍っていた。全米がこのニュースを取り上げた。
✪父と娘は、馬車でホワイトハウスへ向かった。
大統領夫人が昼食に招いてくれたのである。親子2人が夫人と昼食中、「会議が中止になった。あなたにお会いできて嬉しい」と言いつつ、大統領が入ってきた。カイウラニは『ハワイの未来』について訴えた。感動した大統領は、「アメリカがハワイ王国の独立を守るよう、次期大統領に申し送りする」と約束した。しかし、不幸なことに、クリーブランド大統領の任期はあと4週間しかなく、次期大統領は約束を反故にした。ハワイは紆余曲折の後、併合されることとなった。
✪併合が決まり、合衆国から3名の長官が来る当日。カイウラニは、長官たちを歓迎する晩餐会を主催し、演説した。「ハワイが新しい時代を迎えるに際して、本国と同様の選挙権を請願したい」と。しかし、それには議員資格をもつ代理人が必用だ。
「では誰が?」「私が代理人となり、アメリカ議会に請願しよう」「この娘、カイウラニは、もう王女様などではない。このハワイを開拓したのは俺だ、我々白人だ。先住民が選挙権を持つのは早すぎる」「ハワイ島のハワイ人の数は?」「全人口の90%です」「では・・請願を議会に提出することとする」
反対派議員は会場から去り、晩餐会が続けられた。
翌日、カイウラニは浜辺で『愛のレイ』を受けた。ハワイ王朝の王権が授与されたのだ。
数か月後、至急電報が届いた。そこには、≪アメリカ合衆国議会は、ハワイ先住民の権利を認め、市民権を与えます≫とあった。父は娘を抱きしめ、「とうとうやり遂げたね、娘よ」と涙ながらに言った。
✪クライブはカイウラニを訪れ、「結婚しよう」と誘った。「もはや王朝は架空のものになった。僕とイギリスに帰ろう」「ハワイ王国がなくて、私はどこに消えるの?・・さようならクライブ・・」
✪1年後、カイウラニは23歳の若さで世を去った。
✪1973年、クリントン大統領は、アメリカ議会の承認を得て、≪謝罪決議案≫に署名した。アメリカ合衆国は、自らがハワイ王国を転覆させたことを正式に謝罪したのである。(幕)
 ★映画では史実は省略されている。【王国→消滅→共和国(大統領サンフォード・ドール)→アメリカ領→アメリカ合衆国・第50番目の州】へと変遷している。人口の90%を占めたハワイ人は現在約10%程度。今では混血でないハワイ人を探す方が困難だ。
 ★カイウラニに独立を約束したクリーブランド大統領は、回想録にこう書いている。
「今やハワイはアメリカのものとなった。この不幸な出来事を振り返り、恥知らずなやり方を考えると、弁解の余地もなく恥ずかしい」
★リリウオカラニ女王は、一市民として宮殿を去る際、『アロハ・オエ』を作詞・作曲・独唱した。その後、1917年に死去するまでハワイ民衆の福祉向上に尽くした。

フラダンスショー(3曲)      踊り・解説 加藤慶子会員 

(1)真珠貝  Pearly shells 
日本でも、1960年にビリー・ボーンが「真珠貝の歌」として歌って大ヒットしました。原曲は、ハワイ・オアフ島の古歌「エヴァの歌」から。映画「ドノヴァン珊瑚礁」に挿入されてヒットしたものです。

(2)南国の夜  On a tropic night
 原曲はメキシコの作曲家アグスティン・ララの「ペラグルスの夜」。日野てる子が持ち歌として日本語で歌い、広く知られるようになりました。翻訳は幾つかありますが、今回は「月の輝く・・」で始まる曲を使いました。日本語で歌われているので、歌詞を聞きながら、手の動き(ハンドモーション)を楽しんで頂きたいと思います。プリンセス・カイウラニが好きだった花、王女の名誉を称えて、ハワイ語で“ピカケ”と命名された花をレイにかけて踊ります。

(3)別れの歌  To you sweet heart a l oha
映画「フラ・ガール」の大事な場面に使われました。
ここにはハワイアン・ソングの中で最も良く知られている別れの曲「アロハ・オエ」が組み込まれています。「アロハ・オエ」は、今回の映画の主人公ヴィクトリア・カイウラニの伯母で、ハワイ王朝最後の女王リリウオカラニが、宮殿を去る時、民衆を前に「お別れを告げる歌」として歌ったものでした。直訳すれば、「あなたに愛を込めて別れの歌を」。 
ハワイには女王の銅像が立っています。オペラ歌手のようながっしりした体格で、音楽的才能、声量豊かな女性だったことが感じられます。

私の健康法

コラム≪散歩道≫へ投稿  2013.7.5.~五島軒社長 若山 直

近年、日本社会に不気味な『異変』が起きている。
有史以来増えてきた人口は平成20年から減少に転じ、その中で『自殺者』が3万人に達して減少する気配がない。明らかになってきたのは、その主因がストレス、ストレスからくる鬱病で、多くが、大小を問わず企業経営に従事している男性達だという事実である。
巷には鬱病の本が溢れているが、癌・心筋梗塞・エイズと異なり、心の病に特効薬はなく、予防法は当面、自分自身で対処法を考えるしかない。
このコラム『散歩道』が登場したのも、世相を反映して自殺・病気に罹りにくそうな経営者を選んで書いてもらい、ストレス解消法のヒントを共有しようということに違いない。私はこの7月で満68歳になるが、未だに入院経験はなく、20歳の時の体型に変化はないから『有資格者』だと思っている。
ストレス予防のコツは5つに集約できる。
(1)毎朝40分のウオーキングで汗をかくこと。
(2)趣味を活かして教える側に立つこと。
(3)(この『散歩道』のように)依頼された原稿・スピーチは快く受けるが、相手の顔を眺めて中身を変え、原稿は読まないこと(スピーチはリーディングではない。メモは持参しても良いが、聞いている相手の反応次第で中身を変えるということ)
(4)食事、睡眠を規則的にとる(しかし、生真面目になり過ぎるのは逆効果)
(5)『明日の風は明日になってからでなければ決して吹かない』のだから、なにがあっても熟睡すること。
この5か条は毎日継続しないと効果がありません。
では、これを守るとデメリットはないのでしょうか? 無論多少はあります。副作用として、『タバコ・深酒・ギャンブル・浮気』ができにくくなることです。ですから、「酒なく、タバコなく、女のない人生など生きるに値しない」と思う方、「英雄色を好む」を座右の銘にする方にはお勧めできないことを、追記として加えておきたいと思います。
以上

グラン・ブルー le grand Bleu(グレート・ブルー)の献立

この映画は、1989年、パリで187週の連続上映記録を打ち立て、フランスで《グラン・ブルー世代》を生んだ名作である。
たった一度の呼吸で、グラン・ブルーと呼ばれる深い海の底へ素潜りしていく2人の男、フランス人ジャック・マイヨールと、ジャックより2歳年長のイタリア人、エンゾ・モリナーリ。そしてジャックを愛する娘、ジョアンナ・ベーカー。
彼ら3人の運命は、“青から蒼へ、そして碧へ”と変わる深海の魅力に翻弄されていく。
原案・監督をしたリュック・ベッソンはこう書いている。

モロッコの海岸で野宿したとき、僕は10歳だった。
海のかなたを行きかう魚の背びれが、月明かりを反射して時おり銀色に光る。満点の星空のもと、僕は船長と船に飛び乗り、沖合でボートを漕いで《彼》に近づいた。
彼は逃げようともせず、僕にぴったりと寄り添い、ヒレを差し出してお腹を見せた。撫でて欲しい、と言っているみたいだった。船長の「上がって来い!」という声を聞くまで、3時間も海につかっていたせいか、目がかすんだ。こうして僕はイルカと出会った。
 16歳のとき、僕は南イタリアでダイビングのインストラクターをしていた。
ある日、《海洋ドキュメンタリー映画》を見た。
真夜中に100mも潜り、ただ静かに海に抱かれる男の映画だった。気が付くと、僕の目には涙があふれていた。彼の名はジャック・マイヨール。フリー・ダイビングの世界記録保持者だ。僕にとって悪夢のような深海で、彼が幸福を感じていることがわかった。底知れぬ闇の中に、彼は“何”をみていたのだろう。これが、僕の中にグラン・ブルーが誕生した瞬間だった。
 マルセイユに住むマイヨールを始めて訪ねた時、僕は興奮して機関銃のようにしゃべった。イルカのこと、映画のこと、そして様々な疑問のことを。
彼は、昔フィルムで見たのと同様に、微笑を浮かべてこう言った。『君は空飛ぶ円盤をどこに止めてきたのかね』と。
 それから3年が過ぎた・・。
僕は真実のかけらをつかんでいた。表現方法よりも“表現”が大切なのだ。僕が再び彼を訪ねると、彼は僕をエルバ島に連れていき、手にバーベルを持たせて30メートルまで潜らせた。そして、『分かったかい?』と尋ねた。僕は、本当は何もわかってはいなかった。けれども“なにか”を感じていた。
僕はジャック・マイヨールをモデルに『グラン・ブルー』のシナリオを書き始めた。
執筆中、僕は幾度も壁にぶち当たった。それは、主人公が深海に危険な素潜りする動機についての疑問だった。彼の動機をどうやったら映像化することができるだろう。
なぜ彼はフリー・ダイビングに人生を賭けるのか・・。
だがある日、ロバート・ガーランドが僕にこう言った。
「彼が教えてくれたのは、説明なんかじゃなく、感じることだったはずだ」と。
こうしてシナリオは完成した。
1987年6月、映画『グラン・ブルー』はクランクインした。
青い海のフィルム40キロメートルが僕の手に残された。僕は心身ともに青一色に染まった。
完成した映画を見せた時、マイヨールは「僕はあんなに泣き虫じゃなかった」と言った。
映画は大ヒットした。でも、マイヨールの目に映るグラン・ブルーは、一体どんな色をしているのだろうか。
それは僕の感じた色と同じなのだろうか? それとも、もっと違う何かなのだろうか? 
僕はいつの日かそれを解き明かしたいと願っている。

映画『グラン・ブルー』の献立
★前菜:(1) アンティパスタ: タコのカルパッチョ
皿にニンニクを塗って香りをつけて置く。その上に、スライスしたタコの刺身を並べ、塩、コショウをし、レモン汁とオリーブオイルをかけて供する。
★前菜:(2) ピッツァ(ピザ) :気まぐれピッツア漁師風
パイ生地にオリーブオイルトマトソースを塗り、シーフード(その時の漁でとれた貝、魚、エビなど)を載せ、少量のチーズを振って焼き上げる。本来、牛やヤギの乳からできるチーズは「陸上の食べ物」で、海でとれる「海産物」とはあまり相性は良くない。今回は潮風の香りが消えないようにチーズを少量にしておいた。
★パスタ:『シチリア島名物 海の幸のスパゲティー』
トマトの酸味と、海の幸(アサリ、ホタテ、エビ、イカ)の旨みが渾然と溶け合い、爽やかに仕上げるのがコツ。映画の中で、イタリア人エンゾが「シチリア島に来たら、名物料理『海の幸のスパゲィ』を食べろよ」というシーンが登場する。
フライパンにオリーブオイルを入れ、ニンニク、赤唐辛子を加えて香りをつける。そこに海の幸を入れてかき混ぜてから炒める。香りが強くなったところでトマトソース、茹で上げたパスタを入れてかき混ぜ、オリーブオイルを入れて和える。器に盛り、バジルの葉を散らして供する。
★メインディッシュ:セコンドピアット
(2皿目の海の料理2種(1)(2))
いつもは、ホワイトソースを使ったコクのあるグラタンを出していますが、今回は海産物を使ったあっさり味のグラタンにしてみました。
(1)帆立貝のグラタン フライパンで帆立の貝柱とひもをソテーして器に盛り、これに白ワインとバターを煮詰めたものをかけ、チーズとニンニクを混ぜたパン粉でまぶし、オーブンで焼き上げて供する。
(2)イカの詰め物  イカの足、耳、を刻んだものに、バゲット(堅焼きしたパン)の切り身、ケッパー、パルメザンチーズ、松の実、ニンニク、オリーブオイル、溶き卵をよく混ぜ合わせる。これらをイカの胴体8分くらいまで詰めてから楊枝でとめる。フライパンでニンニクとオイルを熱して『詰め物』を焼く。焼けたら、アンチョビ、黒オリーブの実、白ワイン、チキンブイヨン、トマトを加え、2分ほど煮込む。『詰め物』を取り出してカットし、器に盛り付ける。残った煮物にイタリアンパセリを加え、ソースとしてかけて供する。
★ドルチェ(デザート)  ティラミス
マイルドな口当たりのマスカルポーネチーズと、卵で作るクリームとの絶妙な味わいが人気のイタリアンデザートです。一般にイタリア・ベニス(ベネティア、ヴェネト)地方』で生まれた、という説もあります。
ちなみにティラミスとは「気分を盛り上げて」という意味があります。

映画の粗筋
1965年のギリシャのとある海岸。
港の入り江で、7,8歳の男の子達が何か光っているものを見つけた。
「金貨に違いない、潜ってとろう」「でもここは深いよ」
男の子の中で、ちょっとひ弱そうなジャックが、「僕が最初に見つけた、僕が潜る」と言い、飛び込もうとした。そのとき、一際大柄な子供が走ってきた。
「あっ、イタリアのエンゾだ」。エンゾはジャックに、「この俺が潜る、取れたら分け前をやる。文句あるかフランスのチビ」「・・ないよ」「じゃあ数えろ」エンゾは飛び込み、6つ数えるうちに金貨をとってきた。
ジャックの父親は潜水夫だった。
ある日、父親は潜水服の不具合のための事故で死んでしまった。その日の朝、父はジャックにこう言っていた。「母さんのことか? アメリカに帰ったのさ、お前を捨てたんじゃないぞ、女というやつは気まぐれなのだ」
その瞬間、ジャックの脳裏に戦慄が走った。
「父さん、今日潜るのは止めて!」
「これが仕事だ。万一溺れても人魚が助けてくれるさ」
ジャックの予感は的中した。こうしてジャックは孤児になった。
それから23年がたった。
シチリア島の海岸で海難事故がおきた。
「救助のダイバーが潜水具の不具合で危ない、誰か救助できる者はいないのか」
駆け付けてきたのは、赤いフィアットのボロ車に乗ったエンゾと彼の弟の2人だった。プロのダイバーになっていたエンゾは、保険会社に「1万ドルなら助けてやる」と吹っかけ、見事救助に成功した。「兄貴、この金で何を?」「マンマ(母親)にはドレス、妹には宝石、お前にはスーツだ。車だって?新車などいらん、それよりフランスのチビを探そう。俺にはフランスのチビが必用なのだ」
アンデス山脈が連なるペルー。
厳寒の田舎駅に一人の若い娘、ジョアンナ・ベイカーが降り立った。
彼女はニューヨークの保険会社の社員で、アンデスの麓の湖で起きたトラック事故の調査のため、現地に来たのだ。
「事故でトラックは湖底に沈んだ」「じゃあ運転手は?」
「春には上がってくるさ」と所長である博士は言った。
「博士、あそこ、氷の中に潜ろうとしているのは誰なの?」
「ジャック・マイヨールというプロのダイバーだ」「でも・・アクアラングは?」
「彼は息をせずに潜るのだ。この心電図をごらん、脳みそに暖気を集めているのがわかるだろう。これは類まれなことだ」
「でもなぜ潜るの?」「科学に実験は付き物さ」
ジャックは氷の湖から小屋に入ると、彼女を見て微笑んだ。
そして「君はイルカに似ているね」と言った。
保険の手続きが終わり、彼女がニューヨークに去る日、ジャックは彼女にイルカの置物をプレゼントした。そして「逢えてよかった」と言った。
ジャックの笑顔が彼女の心に深くしみ込んだ。ニューヨーク帰った彼女に、同居人は、「ひとめぼれしたのね」と言った。
コートダジュールの町。
イルカのプールでジャック・マイヨールがイルカと戯れている。
そのプール脇に突然現れたエンゾ。
「何年ぶりだろう、エンゾ」
「20年・・。ジャック、俺のチビ、今日から10日後、シチリア島のタオルミナで素潜り選手権がある。お前も出場しろ!これが航空券だ」
「エンゾ・・あんたはかわらないなあ」
シチリア島・タオルミナ
町には至る所、『ダイバー世界選手権』の横断幕が張られていた。
エンゾは、到着したジャックを抱いて言う。
「お前はいまだに未婚なのか。俺はフィアンセに逃げられたばかりだ。ママのパスタ攻めが原因さ」
2人は海岸のレストランに席をとり、ジャックに、「シチリア島に来たら、名物の『海の幸のスパゲッテイ』を食え」と叫ぶ。
そこに突然、ジョアンナが現れた。彼女はニューヨークの支店長にウソをついてジャックを訪ねてきたのだった。
「あら、なんて偶然なの、ジャック、貴方も明日の試合に出場するの」
「無論だ、もっとも俺の世界一は揺るがないがね」
その夜、3人はプールの端に陣取り、酒盛りをした。
「エンゾ、僕は棄権するよ。出れば僕が勝つからね」「面白い、じゃあどっちの息継ぎが長いか勝負しよう」「望むところだ」。2人はプールの底に座り、水中でシャンペンを飲む。窒息寸前になって、2人は担架で病院に運ばれた。
ジャックはジョアンナに、財布の中に挟んだ『恋人』(一匹のイルカ)の写真を見せていう。「これが僕の家族だ・・」「泣かないで、私がいるわ・・」
翌日、エンゾは、大会で99mの世界記録を達成した。その夜、ジャックはエンゾを誘い、プールに馴染めないでいる若いイルカを海に逃がしてやった。
別れ際、エンゾは言う。「ジャック、お前はもっと女について勉強しろ、イルカが海を求めているように、彼女も・・」と。
ジャックはジョアンナに思いを打ち明け、2人は初めてベッドを共にしたが、深夜、彼女は隣に寝ていたジャックがいないことに気が付く。明け方、ジャックが海から上がると、ジョアンナはジャックのシャツにくるまり海岸の石の上に寝ていた・・。
エンゾは115mの世界記録を達成。
挑戦者は次々と記録に挑んでは失敗する。日本の代表が飛び込む前に気絶するシーン(飛び込みもしないで)はこの映画のただ一つの汚点だ(日本蔑視!)。競技会の最後にジャックが潜った。記録は驚異的な120m。こうして《第14回世界潜水大会》はジャック優勝、エンゾが2位となった。
ギリシャの海岸:20年前に金貨を拾った同じ場所。
エンゾはジャックの記録に挑戦した。しかし、呼吸困難で倒れる。
息を引き取る直前、エンゾはジャックの胸に手を当てて言う。
「お前の言うとおりだ、陸より海の中が良い。頼む、あそこに連れてってくれ」
ジャックはエンゾの亡骸を抱いて海底に消えた。10分、15分・・息絶え絶えのジャックが浮上し、心臓マッサージで息を吹き返す。
深夜、病室でジャックはイルカに囲まれる夢を見る。そしてジョアンナの制止を振り切り海に向かう。「行かないで。愛しているわ、お腹に貴方の赤ん坊がいるのよ・・」
やがて彼女は彼の心を感じとり、ダイビング装置を作動しつつ叫んだ。
「行って、ジャック!そして私の愛を探してきて」
深い海の中で、ジャックは逃がしてやったイルカに出会う
イルカの誘いに答えて“命綱„を離すジャック。
イルカに抱かれて去っていくジャックの姿が海底の闇のなかに溶け込んでいく。
そして、《愛する娘ジュリエットに捧げる》の字幕が浮き出てくる・・≪幕≫

五島軒 4代目 若山社長の月刊コラム